紺碧の海と白い砂浜が広がるサイパン島。多くの人にとって、それは南国の楽園というイメージかもしれません。しかし、その美しい島の地には、想像を絶する悲劇と、5万7千もの尊い命が失われた戦争の記憶が深く刻まれています。東京の八王子市ほどの広さしかないこの島で、一体何が起こったのでしょうか。
楽園への夢、そして現実
かつて、サイパンは夢を抱いて南洋を目指した人々にとって、新たな生活の地でした。山形県から移住してきた百次郎とタマの若夫婦も、その一人です。彼らは瀬戸物屋を開いたり、食料品を納入したりと奮闘しますが、百次郎の放蕩癖からうまくいかず、北海道や樺太(現在のサハリン島)への出稼ぎを経験します。南洋に行けば金塊が転がっていると甘い夢を見ていた百次郎は、やがてその考えが根本から覆されたと述懐しています。
――自分は南洋に行きさえすれば、そこらに金塊でも転がっているくらいに思っていたが、そんな甘い考えは根本から覆されてしまった。どこの世界へ行っても、やっぱり人間は働かなければ食えないことを、身に染みて感じたものだ。引用:『日本領サイパン島の一万日』野村進著
サイパンの自然環境も、決して楽園ばかりではありませんでした。水源が少なく、住民は雨水を貯水槽に蓄えて生活していました。密林が島全体を覆っていたのは、雨期と高温、肥沃な土壌という条件が重なったためです。人々は、楽園とは異なる厳しい現実の中で、懸命に生きていたのです。
「玉砕」という名の真実
太平洋戦争が始まると、日本軍はフィリピン、マレー、シンガポールなどを次々と攻め落とし、開戦後わずか半年で東南アジアと西太平洋のほぼ全域を支配下に収める快進撃を見せます。しかし、戦況は次第に悪化し、サイパン島は日米両軍の激戦地となっていきます。
この頃、山崎清子という女性が「玉砕」という言葉を初めて目にします。その意味を尋ねると、「どうせ戦争協力者の文士連中の新造語にちがいないよ」と返されたと言います。「玉砕」とは、唐の時代の書物にある「大丈夫たる男子は、いたずらに生き長らえるよりは玉のごとく美しく砕け散るほうがよい」という一節に由来するとされます。しかし、大本営はこれを現代に復活させ、神がかり的な殉国思想と結びつけ、多くの兵士に死を強いる「詐術」として用いました。
サイパン戦の終盤、日本軍の合同司令部は、すべての将兵に総攻撃を命じます。
この七月五日という日は、日本軍の合同司令部が南雲忠一長官と斎藤義次師団長の連名で、すべての将兵に総攻撃を命じた日である。すでに日本軍守備隊は、タナパグ・電信山・タロホホを結ぶ陣地に下がっていたが、米軍の進撃は予想以上に早く、最後の防衛線すら分断されたり、後退を余儀なくされていた。このまま北へ追い詰められていけば、民間人ともども窮死は免れない。最悪の事態を避けるため、日本軍将兵は身を挺して、米軍に一矢を報いなければならぬ。 これが、合同司令部に総攻撃を決意させた理由であった。攻撃開始は、明後日の七月七日、午前三時半――。 「米鬼ヲ 索 メテ攻勢ニ前進シ一人 克 ク十人ヲ 斃 シ以テ全員玉砕セントス」 「予ハ切ニ諸隊ノ奮戦敢闘ヲ期待シ聖寿ノ万歳ト皇国ノ繁栄ヲ祈念シツツ諸士ト共ニ玉砕ス」 南雲の下した命令は、「玉砕」の強制にほかならなかった。引用:『日本領サイパン島の一万日』野村進著
「バンザイ・アタック」と呼ばれたこの肉弾攻撃は、サイパン西海岸に四千を超える日本人の死体を残しました。それは「内臓や脳みその露出した悪臭ふんぷんたる死体の大きな塊」として米軍に突きつけられた、美化された「玉砕」の本当の姿だったのです。
「バンザイ・アタック」と呼ばれた肉弾攻撃がついに沈黙させられたとき、サイパン西海岸の戦場には四千を超える日本人の死体が、あるところでは二重、三重になって散乱していた。日本軍は、組織的な抵抗に事実上とどめを刺されたことを、この「内臓や脳みその露出した悪臭ふんぷんたる死体の大きな塊」(アメリカ人従軍記者ロバート・シャーロッドの報告) で、米軍に突きつけて見せたのである。それが、日本では美化して語られてきた「玉砕」の本当の姿であった。引用:『日本領サイパン島の一万日』野村進著
極限下の選択と人間の尊厳
戦闘が激化する中、民間人もまた、想像を絶する苦しみを味わいました。食料や水が尽き、大人たちはほとんど一睡もできず、自分と子どもたちの命を保つことに全神経を集中させていました。女性たちの生理も止まり、人体そのものが根こそぎ変わってしまったかのように感じられたと言います。
日本軍の指導者層は、民間人の命に対する配慮を欠いていました。南雲長官の最後の訓示には、民間人への指示が一片たりとも読み取れず、同県人で親交のあった斎藤貞三は憤りを隠しませんでした。
私は南雲を恨みますよ。民間人であれ軍人であれ、日本人を死なしちゃいかんという気持ちが少しでもあったなら、どこそこへ逃げて海軍の貯蔵してある食糧を分けてもらえとか、民間人はどこそこへ集結して投降しろっていうぐらいの指示・指令は、あってしかるべきじゃなかったか引用:『日本領サイパン島の一万日』野村進著
赤子の泣き声が米軍の攻撃目標になることを恐れ、我が子を手に掛けた母親も少なくありませんでした。正太郎が目にした武吉の姉と赤子の姿も、その悲劇を物語っています。
わずかな水も命の源でした。極限状態の中、水を巡って人々は殺気立ち、奪い合いが起こることもありました。正太郎は、子どもたちのために必死で水を確保し、その時の人々の狂気を目撃しています。焼け野原のサトウキビ畑で、焦げた茎を選んで水分を啜る日々。父・万太郎は高熱にうかされ、「水を腹いっぱい飲んで死にたい」と漏らすほど衰弱していました。正太郎自身も命を惜しむ気持ちが薄れ、ただ水だけを求めました。
泥のような腐臭のする水でも、喉の渇きには勝てません。
十二本の瓶は、またたくまにカラになった。子どもらも、ラッパ飲みで息もつかずに四合瓶を空けた。二日二晩、焼けたサトウキビを 齧った以外、飲まず食わずでいたのだ。どぶの腐臭を気に掛けるゆとりなど、あるはずもなかった。引用:『日本領サイパン島の一万日』野村進著
米軍の掃討作戦もまた、避難民の死傷者を激増させました。火炎放射器や手榴弾で民家や洞窟を破壊し、日本兵の影には集中砲火を浴びせました。そこには、黄色人種を同列の人間とみなさぬ白色人種の視線があったと指摘されています。そして、「バンザイ・アタック」が、そうした偏見に強固な裏打ちを与えてしまった可能性も示唆されています。
正太郎一家にも、さらなる悲劇が襲いかかります。妹のみさ子と息子・昭は砲弾の破片で即死。妻の喜代江も重傷を負い、苦しみます。絶望した父・万太郎は、末娘や孫たちの死に耐えきれず、海に身を投げてしまいました。
そんな絶望の淵で、正太郎は佐々木という青年とその家族に出会います。彼らは持っていた乾パンとビールを分け与えてくれました。その乾パンは、正太郎にとって「何ともたとえようのないうまさ」だったと言います。しかし、その満ち足りた思いは長くは続きませんでした。乾パンとビールが原因か、末娘の富子は激しい嘔吐の末、命を落としてしまいます。
久しぶりの満ち足りた思いは、だが、長くは続かなかった。じきに、胸焼けをひどくしたような不快感が、胃からこみ上げ、激しい嘔吐を催した。 見ると、末娘の富子の様子がおかしい。血の気がすっかり失せ、口から泡を吹いている。びっくりして、いそが抱きかかえたら、腕の中でぐんと反り返り、その反動でぐにゃりとなった。もう息は止まっていた。 ――水を腹一杯飲んで、気持ちよく死んでいったにちがいねえ……。 苦しみの短かったらしいことが、正太郎にはせめてもの慰めであった。佐々木の姉の赤ん坊も、まもなく同じようにして死んだ。引用:『日本領サイパン島の一万日』野村進著
サイパンが残す問い
サイパンでの悲劇は、そこで命を落とした人々だけでなく、生き残った人々の心にも深い傷を残しました。百次郎は、自分が多くの山形県人をサイパンに呼び寄せたことへの激しい自責の念に駆られていました。もし自分が南洋へ行かなければ、彼らは雪国で静かな生活を送っていたはずだと。
サイパン島は、その後も歴史の大きな転換点となります。サイパンやグアムの基地からは、東京大空襲を引き起こしたB-29が飛び立ち、テニアン島からは広島に投下された原爆「リトル・ボーイ」を搭載したB-29「エノラ・ゲイ」が飛び立っていきました。サイパンでの戦いが、その後の日本の運命を大きく左右したのです。
この美しい島で起きた悲劇は、私たちに何を問いかけているのでしょうか。戦争の残酷さ、人間の尊厳、そして平和の尊さを改めて深く考えるきっかけを与えてくれます。サイパンの歴史を知ることは、未来へと続く平和を築くために、私たち一人ひとりができることを考える第一歩となるでしょう。
コメント