「わかったつもり」の正体を知る――『バカの壁』が教える現代の盲点

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現代社会では、インターネットを通じてあらゆる情報が瞬時に手に入ります。しかし、私たちは本当に物事を「理解」できているのでしょうか。養老孟司氏の著書『バカの壁』は、私たちが無意識のうちに築いている「理解の境界線」を鮮やかに描き出しています。

情報の洪水の中で、私たちが無視してしまっているもの、そして失われつつある「身体性」について、本書のハイライトから考察します。

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1. 脳が作る「情報の壁」

私たちは、自分にとって関心のある情報だけを選択的に受け取っています。この「関心の有無」が、そのまま「壁」となって現れるのです。

興味が情報を遮断する

歩いていて、足元に虫が這っていれば、私だったら立ち止まるけれど、興味が無い人は完全に無視してしまう。目にも止まらない。これは、虫という情報に対しての方程式の係数が、その人にとってはゼロだから。

引用:『バカの壁』養老孟司著

しかし、百円玉が落ちていると、その人は立ち止まるかもしれない。馬券が落ちていたら、「ひょっとして当たりかも」と期待して立ち止まり、拾うかもしれない。

引用:『バカの壁』養老孟司著

このように、同じ風景を見ていても、脳内の「係数」がゼロであれば、その情報は存在しないも同然となります。これが、人と人との間に「話が通じない壁」ができる根本的な原因です。

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2. 科学的事実と推論の混同

現代人は「科学的」という言葉に弱い一方で、その内実を履き違えることが少なくありません。

「科学的事実」と「科学的推論」は別物です。温暖化でいえば、気温が上がっている、というところまでが科学的事実。その原因が炭酸ガスだ、というのは科学的推論。

引用:『バカの壁』養老孟司著

客観的事実と、そこから導き出された推論を峻別すること。このリテラシーが欠如すると、メディアのモットーである「公平・客観・中立」という言葉の裏側にある危うさを見抜けなくなってしまいます。

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3. 失われる「身体性」と共同体

都市化が進んだ現代において、私たちの生活は脳内(意識)の活動に偏り、身体を通じた実感が希薄になっています。

入出力の限定化という不健康

赤ん坊は、自然とこうした身体を使った学習をしていく。学生も様々な新しい経験を積んでいく。しかし、ある程度の大人になると、入力はもちろんですが、出力も限定されてしまう。これは非常に不健康な状態だと思います。  仕事が専門化していくということは、入出力が限定化されていくということ。

引用:『バカの壁』養老孟司著

私たちは、無意識のうちに動いている自分の身体さえも、人生の一部としてカウントしなくなっています。

無意識の状態でだって、身体はちゃんと動いています。心臓も動いているし、遺伝子が細胞を複製してどんどん増えて、いろんなことをやっているわけです。  それもあなたの人生だ、ということなのです。が、おそらく近代人というのは、それを自分の人生だとは夢にも思っていない。

引用:『バカの壁』養老孟司著

意味は関係性の中から生まれる

「人生の意味」に悩む若者が増えている背景にも、この身体性の喪失と共同体の希薄化が影を落としています。

人生の意味は自分だけで完結するものではなく、常に周囲の人、社会との関係から生まれる、ということです。とすれば、日常生活において、意味を見出せる場はまさに共同体でしかない。

引用:『バカの壁』養老孟司著

かつての共同体は「絶対に人を追い出さないもの」であり、教育の場もまた、管理ではなく子供本人に向き合うものでした。

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4. 壁を意識することから始める

私たちは、自分の中にある「方程式の係数」によって、見たいものだけを見て生きがちです。

今の若い人を見ていて、つくづく可哀想だなと思うのは、がんじがらめの「共通を求められつつも、意味不明の「個性」を求められるという矛盾した境遇にあるところです。

引用:『バカの壁』養老孟司著

こうした矛盾や「壁」の存在を意識することは、他者との断絶を埋める第一歩となります。自分が「わかっていない」という事実を認めること。そこから、本当の意味での学びと人生の豊かさが始まるのではないでしょうか。

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