「見えない」からこそ見える世界 ——美学者が語る視覚障害者の豊かな認識

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「見えない人は世界をどう見ているのか」という問いは、私たちの固定観念を揺さぶる深い洞察に満ちています。美学者である伊藤亜紗氏の著書から、視覚に頼らない世界認識の豊かさと、そこから学べる新たな視点について考えてみましょう。

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美学という学問が問いかけるもの

美学とは、芸術や感性的な認識について哲学的に探求する学問です。もっと平たくいえば、言葉にしにくいものを言葉で解明していこう、という学問です。

引用:『目の見えない人は世界をどう見ているのか (光文社新書)』伊藤 亜紗著

この美学的なアプローチから視覚障害者の世界認識を探ることで、私たちは従来の「見る」という概念を根本から問い直すことになります。

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情報から意味へ——文脈がつくる世界

情報そのものに価値があるのではなく、その情報がどのような文脈に置かれるかによって、まったく異なる意味が生まれます。

つまり「意味」とは、「情報」が具体的な文脈に置かれたときに生まれるものなのです。受け手によって、どのような状況に置かれるかによって、情報は全く異なる意味を生み出します。

引用:『目の見えない人は世界をどう見ているのか (光文社新書)』伊藤 亜紗著

情報格差が生む不平等な関係

視覚情報を中心とした社会では、どうしても見えない人が不利な立場に置かれがちです。

情報ベースでつきあう限り、見えない人は見える人に対して、どうしたって劣位に立たされてしまいます。そこに生まれるのは、健常者が障害者に教え、助けるというサポートの関係です。福祉的な態度とは、「サポートしなければいけない」という緊張感であり、それがまさに見える人と見えない人の関係を「しばる」のです。

引用:『目の見えない人は世界をどう見ているのか (光文社新書)』伊藤 亜紗著

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情報量の調整——新たな適応への道のり

視覚を失った人々は、情報量そのものに対する考え方を根本的に変える必要に迫られます。

「最初はとまどいがあったし、どうやったら情報を手に入れられるか、ということに必死でしたね。(……) そういった情報がなくてもいいやと思えるようになるには二、三年かかりました。これくらいの情報量でも何とか過ごせるな、と。

引用:『目の見えない人は世界をどう見ているのか (光文社新書)』伊藤 亜紗著

この適応過程で興味深いのは、情報量を減らすことで、かえって豊かな世界認識が可能になるという点です。

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次元の違い——平面から空間へ

見える人と見えない人では、世界の捉え方そのものが根本的に異なります。

見える人は三次元のものを二次元化してとらえ、見えない人は三次元のままとらえている。つまり前者は平面的なイメージとして、後者は空間の中でとらえている。

引用:『目の見えない人は世界をどう見ているのか (光文社新書)』伊藤 亜紗著

視点がないことの自由

視点に縛られないことで、むしろ自由な認識が可能になります。

決定的なのは、やはり「視点がないこと」です。視点に縛られないからこそ自分の立っている位置を離れて土地を俯瞰することができたり、月を実際にそうであるとおりに球形の天体として思い浮かべたり、表/裏の区別なく太陽の塔の三つの顔をすべて等価に「見る」ことができたわけです。

引用:『目の見えない人は世界をどう見ているのか (光文社新書)』伊藤 亜紗著

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「すごい」から「面白い」へ——対等な関係性の構築

視覚障害者に対する接し方を変えることで、より豊かな関係性が築けます。

だから私は、序章にも書いたように、「すごい!」ではなく「面白い!」と言うようにしています。本を探し当てるという同じ目的に対して、自分とは全然違うアプローチでそれを達成しているのですから。「へえ、そんなやり方もあるのか!」というヒラメキを得たような感触。「面白い」の立場にたつことで、お互いの違いについて対等に語り合えるような気がしています。

引用:『目の見えない人は世界をどう見ているのか (光文社新書)』伊藤 亜紗著

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点字神話の解体

一般的な思い込みとは異なり、視覚障害者の多くは点字を使用していません。

まず「見えない人=点字」の方程式について。少し古いデータですが、二〇〇六年に厚生労働省が行った調査によれば、日本の視覚障害者の点字識字率は、一二・六パーセント。つまり、見えない人の中で点字が読める人はわずか一割程度しかいないのです。

引用:『目の見えない人は世界をどう見ているのか (光文社新書)』伊藤 亜紗著

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身体の再構築——進化に似たプロセス

触覚の発達と母親との関係

触覚の発達において、母親の身体は特別な意味を持ちます。

子どもがもっとも触りたがる、もっともなめたがる対象といえば母親の体です。自分が母親になって実感しましたが、子どもの母親の体への執着はすさまじいものがあります。執着というより、二、三歳くらいまでは、母親の体を自分の体の延長だと思っているふしさえあります。母親と自分の境界線があいまいなのです。

引用:『目の見えない人は世界をどう見ているのか (光文社新書)』伊藤 亜紗著

リハビリと進化の類似性

身体機能を失うことは、新たな進化的適応を促します。

いずれにせよ、事故や病気によって何らかの器官を失うことは、その人の体に、「進化」にも似た根本的な作り直しを要求します。リハビリと進化は似ているのです。生物は、たとえば歩くために使っていた前脚を飛ぶために使えるように作り替えました。同じように、事故や病気で特定の器官を失った人は、残された器官をそれぞれの仕方で作り替えて新たな体で生きる方法を見つけます。

引用:『目の見えない人は世界をどう見ているのか (光文社新書)』伊藤 亜紗著

器官の可能性を解放する

私たちの身体には、まだ発見されていない多様な可能性が秘められています。

私たちはつい、ある器官に対して「この器官はこういう働きをするものだ」とイメージを固定しがちです。見るのは目、聞くのは耳、と決めつけて考えがち。でも、進化というフェイズにおいては、私たちが予想もしなかったような働きが、ある器官から取り出されていきます。進化における動物の見た目の変形は、ある器官が私たちの固定されたイメージを裏切ってその底力を見せつけた、その結果に他なりません。つまり器官とは、そして器官の集まりである体とは、まだ見ぬさまざまな働きを秘めた多様で柔軟な可能性の塊なのです。

引用:『目の見えない人は世界をどう見ているのか (光文社新書)』伊藤 亜紗著

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社会参加への二つのアプローチ

バリアフリー的解決

製品や環境を改善することで、アクセシビリティを向上させる方法があります。

パッケージに切り込みの印をつけるようメーカーに要望したり、自動販売機に音声案内をつけるように働きかけたりすることもひとつの方法です。実際に、そのような製品も出回っています。

引用:『目の見えない人は世界をどう見ているのか (光文社新書)』伊藤 亜紗著

視点の転換——死刑囚のエピソード

困難な状況でも、視点を変えることで全く違った意味が生まれることがあります。

フロイトが例に出すのは、ある死刑囚のエピソードです。死刑が確定したその囚人は、刑が執行されるのを待つばかりの生活を送っていました。そして、ついにその日が来ます。ある月曜日の朝に、今日が刑の執行日であることを伝えられるのです。とうとう迎えることになった人生最後の日。ところがそこで当の囚人が思いがけないひと言を口にします。「おや、今週も幸先がいいぞ」。

引用:『目の見えない人は世界をどう見ているのか (光文社新書)』伊藤 亜紗著

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障害概念の歴史的変遷

個人モデルから社会モデルへ

障害の捉え方は、社会の発展とともに大きく変化してきました。

何人もの研究者が指摘していますが、こうした個人の「できなさ」「能力の欠如」としての障害のイメージは、産業社会の発展とともに生まれたとされています。現代まで通じる大量生産、大量消費の時代が始まる時期、均一な製品をいかに速くいかに大量に製造できるかが求められるようになりました。その結果、労働の内容も画一化されていきます。

引用:『目の見えない人は世界をどう見ているのか (光文社新書)』伊藤 亜紗著

法的定義の変化

日本の障害者基本法の改正により、社会的障壁という概念が導入されました。

そして約三十年を経て二〇一一年に公布・施行された我が国の改正障害者基本法では、障害者はこう定義されています。「障害及び社会的障壁により継続的に日常生活又は社会生活に相当な制限を受ける状態にあるもの」。つまり、社会の側にある壁によって日常生活や社会生活上の不自由さを強いられることが、障害者の定義に盛り込まれるようになったのです。

引用:『目の見えない人は世界をどう見ているのか (光文社新書)』伊藤 亜紗著

表記問題への視点

「障害者」という表記を変えることの意味について、興味深い指摘があります。

先に「しょうがいしゃ」の表記は、旧来どおりの「障害者」であるべきだ、と述べました。私がそう考える理由はもうお分かりでしょう。「障がい者」や「障碍者」と表記をずらすことは、問題の先送りにすぎません。そうした「配慮」の背後にあるのは、「個人モデル」でとらえられた障害であるように見えるからです。むしろ「障害」と表記してそのネガティブさを社会が自覚するほうが大切ではないか、というのが私の考えです。

引用:『目の見えない人は世界をどう見ているのか (光文社新書)』伊藤 亜紗著

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新たな世界認識への扉

視覚障害者の世界認識を知ることで、私たちは自らの固定観念を見直し、より豊かで多様な世界の見方を学ぶことができます。「見えない」ことは単なる欠如ではなく、異なる認識方法による豊かな世界体験なのです。この理解は、障害者と健常者という区別を超えて、すべての人にとっての新たな可能性を開くものといえるでしょう。

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