マイケル・サンデル教授の著書『これからの「正義」の話をしよう ──いまを生き延びるための哲学』は、私たちを取り巻く社会の出来事を通じて、「正義」とは何かを深く考えさせる一冊です。経済的な繁栄や個人の自由、そして美徳といった多角的な視点から、公正な社会のあり方を問いかけます。本書から、現代の課題と哲学的な視点について考察します。
便乗値上げから考える「公正な価格」
災害時における便乗値上げの是非は、正義の分配を考える上で重要なテーマです。ハリケーン・チャーリー後のフロリダ州で、司法当局に多数の苦情が寄せられ、勝訴に至った事例は、社会が経済的な自由と同時に公正さを求めていることを示しています。
「われわれの議論の大半は、少なくとも表面上は経済的繁栄の促進と個人の自由の尊重に関するものだ。」
引用:『これからの「正義」の話をしよう ──いまを生き延びるための哲学』
しかし、人々が本当に大切にしているのは経済的合理性だけではないことが、以下の引用からも明らかになります。
「ある社会が公正かどうかを問うことは、われわれが大切にするもの──収入や財産、義務や権利、権力や機会、職務や栄誉──がどう分配されるかを問うことである。公正な社会ではこうした良きものが正しく分配される。つまり、一人ひとりにふさわしいものが与えられるのだ。難しい問題が起こるのは、ふさわしいものが何であり、それはなぜかを問うときである。」
引用:『これからの「正義」の話をしよう ──いまを生き延びるための哲学』
公正な社会とは、単に市場原理に任せることではなく、「ふさわしいもの」が正しく分配される状態であり、その基準を定めることが哲学の役割です。
金融危機と報酬の倫理
2008年の金融危機における企業救済と、それに伴う経営者への高額ボーナスは、アメリカ社会の「正義感」を大きく揺るがしました。
「アメリカ人の正義感を最も損なったのは、失敗に報酬を与えるために税金が使われていることだったのである。」
引用:『これからの「正義」の話をしよう ──いまを生き延びるための哲学』
この怒りの背景には、単なる嫉妬ではなく、失敗した者が報酬を得ることの不当性という、道徳的な感情があります。オバマ大統領の次の発言も、この点を明確に指摘しています。
「しかし、人びとが当然にも憤慨しているのは、失敗した経営者が報酬を得ていることです。その報酬を納税者がまかなっているとなれば、なおさらです」
引用:『これからの「正義」の話をしよう ──いまを生き延びるための哲学』
また、日本の経営者のように「深く頭を下げて『申し訳ありませんでした』と謝り、それから二つのことの一つ──つまり辞職か自殺をすれば、少しは気が収まる」という、チャールズ・グラスリー上院議員の過激な発言は、責任と美徳の結びつきに対する人々の期待を露呈しています。
功利主義と個人の自由のジレンマ
正義を考える上で、本書は「幸福」「自由」「美徳」の三つの観点からアプローチします。
「価値あるものの分配にアプローチする三つの観点を明らかにしてきた。つまり、幸福、自由、美徳である。これらの理念はそれぞれ、正義について異なる考え方を示している。」
引用:『これからの「正義」の話をしよう ──いまを生き延びるための哲学』
なかでも、最大多数の最大幸福を目指す功利主義は、一見合理的ですが、個人の権利を侵害する可能性を内包しています。
喫煙に関するチェコ政府の費用便益分析の事例は、功利主義の冷徹さを示しています。
「喫煙者が生きているあいだは国家予算の医療費負担が増えるものの、喫煙者は早死にするため、政府は医療費、年金、高齢者向け住宅などにかかる少なからぬ費用を節約できるのである。」
引用:『これからの「正義」の話をしよう ──いまを生き延びるための哲学』
また、リバタリアン(自由至上主義)の立場からは、富裕層への課税は「強制」であり、個人の権利侵害であると捉えられます。
「いかなる人も強制されるべきではないとされる事柄のなかでも特に目を引くのは、他人を援助することだ。貧しい者を助けるために富める者に課税することは、富める者への強制である。それは自分の所有物を自由に利用するという、富める者の権利を侵害する。」
引用:『これからの「正義」の話をしよう ──いまを生き延びるための哲学』
カント哲学が示す「道徳的価値」
イマヌエル・カントの義務論は、正義を自律的な行動と義務の動機から捉えます。真に自由な行動とは、「自分が定めた法則に従って行動すること」です。
「カントの考える自由な行動とは、自律的に行動することだ。自律的な行動とは、自然の命令や社会的な因習ではなく、自分が定めた法則に従って行動することである。」
引用:『これからの「正義」の話をしよう ──いまを生き延びるための哲学』
そして、道徳的な価値を持つのは、義務以外の動機、例えば私利や傾向性の動機からではなく、「義務の動機」から生じた行動のみであると主張します。
「もし義務以外の動機、たとえば私利から行動しているなら、その行動に道徳的な価値はない。」
引用:『これからの「正義」の話をしよう ──いまを生き延びるための哲学』
また、カントは人間を目的として尊重し、手段として扱ってはならないと考えます。自律的な行動とは、自分自身を尊重し「物扱いしないこと」なのです。
「カントにとって、自律的な行動とは自分自身を尊重し、物扱いしないことだ。自分の肉体だからと言って、好き勝手にはできないのである。」
引用:『これからの「正義」の話をしよう ──いまを生き延びるための哲学』
契約の限界とアリストテレスの美徳論
現代社会では「同意」が道徳的な拘束力の源泉とされますが、サンデルは「契約の道徳的限界」を指摘します。当事者同士が同意しても、それが公正さを保証するわけではありません。
「一つは、同意したという事実だけでは同意の公平性は保証されないということ、もう一つは、同意を得ただけでは道徳的拘束力は発生しないということだ。」
引用:『これからの「正義」の話をしよう ──いまを生き延びるための哲学』
正義を「美徳」から考えるアリストテレスは、物の正しい分配方法を決めるには、その物のテロス(目的)を調べる必要があると主張します。
「物の正しい分配方法を決めるには、分配される物のテロスすなわち目的を調べなくてはいけないというのが、アリストテレスの言い分である。」
引用:『これからの「正義」の話をしよう ──いまを生き延びるための哲学』
さらに、道徳的な行動を繰り返すことで美徳が身につく、という考え方は、私たちの日常の行動に道徳的な意味合いを与えます。
「絶えず道徳的な行動に励むことによって、道徳的に行動をする傾向が身につくのである。」
引用:『これからの「正義」の話をしよう ──いまを生き延びるための哲学』
正義を問い続けることの重要性
サンデル教授のこの本は、私たちに「自分が何を考え、またなぜそう考えるのかを見きわめてはどうだろう」と問いかけます。
「正義に関する自分自身の見解を批判的に検討してはどうだろう──そして、自分が何を考え、またなぜそう考えるのかを見きわめてはどうだろうと。」
引用:『これからの「正義」の話をしよう ──いまを生き延びるための哲学』
便乗値上げ、金融危機、功利主義の冷徹な計算、カントの道徳法則、そしてアリストテレスの美徳論。これらの事例と哲学的な考察を通じて、私たちは「正義」という難題に、立ち向かうための「羅針盤」を得ることができます。現代社会の複雑な問題の根底にある道徳的・倫理的な問いを、批判的に考え続けることが、私たちが「いまを生き延びるための哲学」となるでしょう。
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