📖 若き日の葛藤と真実の探求|高野悦子『二十歳の原点』から

Book

『二十歳の原点』は、1969年に20歳で自死した高野悦子さんが遺した日記をまとめたものです。本書は、彼女の多感な内面、孤独、そして「生きる」ことへの真摯な問いかけを鮮烈に描き出しています。ここに記された言葉は、時代を超えて、今を生きる私たちの心にも深く響きます。

この記事では、彼女が日記に書き残した言葉から、自己の存在、人間関係、そして人生への向き合い方といったテーマに迫ります。

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💡 「独りであること、未熟であること」―― 自己の存在価値

 

高野悦子さんは、自己のあり方を深く見つめ、その未熟さや不完全さを否定しませんでした。むしろ、そこに人間の本質的な価値を見出しています。

独りであること、未熟であること、 これが私の二十歳の原点である。

引用:『二十歳の原点』高野 悦子著

人間は完全なる存在ではないのだ。不完全さをいつも背負っている。人間の存在価値は完全であることにあるのではなく、不完全でありその不完全を克服しようとするところにあるのだ。人間は未熟なのである。

引用:『二十歳の原点』高野 悦子著

「独りであること」「未熟であること」を原点と定めた彼女は、不完全な自分を受け入れつつ、それを克服しようとする「生命の発露」に価値を見出します。これは、完璧ではない自分を責めがちな私たちにとって、大きな慰めと励ましとなる言葉ではないでしょうか。

 

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👥 他者との関係性と「真の自分」

 

他者とどうかかわり、自己を認識していくのか、という問いもまた、日記の大きなテーマです。彼女は、自己と他者の間に存在する見えない壁に苦悩します。

他人は、私をガラスを通してみる。私はガラスを通して現実をみる。そのガラスを取りさったとき、一体どんな世界があるのか。

引用:『二十歳の原点』高野 悦子著

また、「真の自分」の曖昧さについても深く考察しています。

ランボーはいった。「私の中に一人の他人がいる」と。私としては私の中に他人がいるというよりも私というものが統一体でなく、いろいろ分裂した私が無数に存在しているように思う。これが私だと思っている私は私でないかもしれない。人間はとかく都合のいいように合理化して解釈する。とにかく真の自分だなんて相手はこうなんだなんて思いこんでいるものは、合理化によって作られた虚像に過ぎぬものかもしれない。

引用:『二十歳の原点』高野 悦子著

他者を通じてしか自分を知ることができないという「悲劇」(引用:『二十歳の原点』高野 悦子著)を抱えながらも、「自己の存在は自分で負わなくてはならない」(引用:『二十歳の原点』高野 悦子著)と、自己責任の重さを受け止めようとしています。

 

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🕰️ 「今」を生きる熱量と「生と死」への問い

 

彼女は「生きる」ということを、ただ惰性で過ごすこととは対極にある、強烈な熱量と向き合いとして捉えています。

今という瞬間を生きなければ人は死ぬのだ。

引用:『二十歳の原点』高野 悦子著

しかし、その激しい内面の葛藤は、「死」への思考にもつながります。

青春を失うと人間は死ぬ。だらだらと惰性で生きていることはない。三十歳になったら自殺を考えてみよう。だが、あと十年生きたとて何になるのか。今の、何の激しさも、情熱ももっていない状態で生きたとてそれが何なのか。

引用:『二十歳の原点』高野 悦子著

彼女は、「生きること生活すること、私はどのように生きていくのか、あるいは死ぬのか」(引用:『二十歳の原点』高野 悦子著)と、絶えず自問していました。その問いの深さ、真剣さは、読む者に「自分はどう生きるのか」と問いかけずにはいられません。

 

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✒️ おわりに

 

高野悦子さんの日記は、若き日の苦悩や葛藤を赤裸々に綴りながらも、真実の自己、そして真摯な人生のあり方を探求した記録です。

現代社会を生きる私たちも、孤独や自己の不完全さに悩むことは少なくありません。しかし、彼女の言葉は、その苦悩そのものに意味があることを教えてくれます。彼女が残した言葉を、自身の「原点」を見つめ直すきっかけとしてみてはいかがでしょうか。

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