私たちは日々の生活の中で、ふとした疑問や悩みにぶつかることがあります。そんな時、遠い昔に記された「古典」の中に、現代にも通じる普遍的な智慧を見出すことができるかもしれません。安田登氏の著書『役に立つ古典 NHK出版 学びのきほん』から、人生を豊かにするヒントを探ります。
漢字から読み解く、思考と概念の変遷
私たちは普段何気なく使っている漢字ですが、その成り立ちや歴史を紐解くと、当時の人々の思考や概念が浮かび上がってきます。
「死」と「心」の概念の歴史
訓読みがない漢字は、それが入ってきたときには、それを表すものや概念が日本語にはなかったことを意味します。日本には「死」という概念がなかったのです。
引用:『役に立つ古典 NHK出版 学びのきほん』安田登著
「死」という漢字に訓読みがないのは、日本語にその概念がなかったことを示唆するといいます。また、「心」という漢字も、その歴史をたどると興味深い事実が見えてきます。
「心」という文字がなかったときには、心を部首とする漢字もありませんでした。たとえば「悲」、たとえば「悩」など。悲しみや悩みなどの心を部首とする文字によって表現されるこれらの感情は、時間があってはじめて存在し得る感情です。時間や心の誕生は、これらの漢字も生みました。
漢字の歴史を調べてみると、孔子の時代には「心」に関する漢字はまだ数が少なかったことがわかります。五百年経ったとはいえ、「心」はまだ人々にとって新しい概念だったのですね。そのため、人々は「心」によって生じる「不安」に対処する術を持ちあわせていませんでした。
引用:『役に立つ古典 NHK出版 学びのきほん』安田登著
「心」という概念が人々に浸透するにつれて、「悲」や「悩」といった感情を表す漢字が生まれたという考察は、言葉が思考や感情の形成に深く関わっていることを教えてくれます。
『論語』における「惑」の真意
孔子の有名な言葉に「四十にして惑わず」というものがあります。しかし、安田氏は漢字の歴史から、この解釈に新たな視点を提供します。
子曰わく、吾十有五にして学に志し、三十にして立ち、四十にして惑わず、五十にして天命を知る。六十にして耳順う、七十にして心の欲する所に従いて矩を踰えず。(先生がいわれた。「わたしは十五歳で学問を志し、三十歳で一本立ちとなり、四十歳で迷いがなくなり、五十歳で天から与えられた使命をさとった。六十歳で人のことばをすなおに聞けるようになり、七十歳で自分の思うままに行なってもゆきすぎがなくなった」) (『論語』貝塚茂樹訳注 中公文庫)
引用:『役に立つ古典 NHK出版 学びのきほん』安田登著
そこで漢字リサーチの出番です。先の文章に出てくる漢字が、孔子の時代にあったかどうか調べてみる。すると驚いたことに、この章句の肝である「惑」という漢字が、孔子の時代にはないのです。ない場合は、孔子はそう言わなかった可能性が高い。おそらく別のことを言っていて、それが文字化されるあいだに変化して、「惑」の字になったのではないかと考えられます。
引用:『役に立つ古典 NHK出版 学びのきほん』安田登著
孔子の時代には「惑」という漢字が存在しなかった可能性があり、本来は別の意味が込められていたのではないか、と著者は指摘します。では、「四十にして惑わず」の本来の意味は何だったのでしょうか。
四十歳くらいになると、どうも人は自分を区切りがちになる、自分を限定しがちになる。自分ができるのはせいぜいこのあたりまでだ。自分の専門外のことはできない。そんな具合にです。それではいけないというのが、「四十にして区切らず」だと思います。そして、さまざまなことにチャレンジする。その結果として訪れるのが、「五十にして天命を知る」なのです。
引用:『役に立つ古典 NHK出版 学びのきほん』安田登著
「惑わず」ではなく「区切らず」。自分に限界を設けず、積極的に様々なことに挑戦することこそが、「五十にして天命を知る」に繋がるという解釈は、現代を生きる私たちにも勇気を与えてくれます。
自分を磨き、可能性を広げる
古典は、自己成長のヒントも与えてくれます。
「切磋琢磨」の真の意味
東洋学者の貝塚茂樹氏によれば、「切」とは骨を削って器をつくること、「磋」は象牙を加工すること、「琢」は玉を擦ること、「磨」は石を磨くことだといいます。つまり切磋琢磨とは、あるものに手を加えて付加価値をつくることなのです。
しかし、たとえばダイヤモンドを磨く研磨機で真珠を磨いたら、真珠は台無しになってしまいます。それぞれの原石には、それぞれを磨くためのツールがあるのです。
つまり、切磋琢磨とは「その人のあり方に合ったやり方で自分を磨く」ということです。
引用:『役に立つ古典 NHK出版 学びのきほん』安田登著
「切磋琢磨」という言葉は、ただ闇雲に努力することではなく、自分自身の特性に合った方法で自分を磨くことの重要性を教えてくれます。
「過ちを改める」は自分を鞭打つことではない
孔子は「過ちを改める」ことの重要性も説いています。
孔子は「過ち」を「改める」と言っていますが、「改」という漢字は左側が「己」で、右側は人が手に鞭を持ったところを表しています。とすると、これは自分を鞭で打つこと、と思いがちですが、古い時代の漢字では、左側は「己」ではなく「巳」、つまり蛇なのです。蛇を鞭で打っている形なんですね。
蛇は過剰の象徴です。つまり、過ったときに打つのは自分ではなく、象徴としての蛇、本体ではなくその外側の過剰、ということなのです。
引用:『役に立つ古典 NHK出版 学びのきほん』安田登著
過ちを正す際に、自分自身を過度に責めるのではなく、過剰な部分、つまり「蛇」を打つという解釈は、自己肯定感を保ちながら成長していくための大切な視点です。
共感(一体化)できない人は、相手の痛みがよくわかりません。人に注意するときでも「自分はこのくらい言われても平気だから、この人も大丈夫だろう」とあっさり本体を打ってしまいます。ですから「これを言ったらこの人は傷つくな」とわかっている人、そういう共感ができる人を友とすべきだと孔子は言っているのです。「本当のことを言ってくれる人が本当の友人だ」と言います。そんなことはありません。本当の友は、あなたの過剰に気がついてくれて、しかもそれを指摘するときには本体を打たずに蛇を打ってくれるはずです。友だちは多ければいいというものではありません。そんな友を探すことが大切です。
引用:『役に立つ古典 NHK出版 学びのきほん』安田登著
真の友とは、相手の痛みに共感し、その過剰な部分を指摘する際に、本体ではなく「蛇」を打つことができる人であるという孔子の教えは、人間関係を築く上での深い洞察を示しています。
「温故知新」と「知」
既存の知識や方法を詰め込んだ鍋をぐつぐつ煮て温めたり、あるいは糠床で発酵を待ったりしていると、そこに全く新しい視点や方法が突如として現れる。それが「温故(而)知新」であり、そのような精神作用が「知」なのです。
引用:『役に立つ古典 NHK出版 学びのきほん』安田登著
「温故知新」は、ただ古いものを学ぶだけでなく、そこから全く新しい視点や方法を生み出す精神作用こそが「知」であると説いています。
芭蕉に学ぶ、俳諧的生活と困難の乗り越え方
江戸時代の俳人、松尾芭蕉もまた、私たちに多くの教えを残しています。
芭蕉の「中有の旅」
仏教で言うところの中有の旅なのでしょう。仏教では、人は亡くなると次の生に生まれ変わるまでに七日間の旅を七回繰り返すという、中有の期間があります。いわゆる四十九日です。補陀落渡海を経て日光詣で一度死んだ芭蕉は、ここでまさに、次の生に生まれ変わる前の中有の旅をしているのです。
引用:『役に立つ古典 NHK出版 学びのきほん』安田登著
芭蕉の旅は、単なる移動ではなく、次の生へと生まれ変わる「中有の旅」であるという解釈は、彼の旅に一層の深みを与えます。
『おくのほそ道』と能の世界
『おくのほそ道』に登場する不思議なエピソードも、能という視点から見ると理解できると安田氏は述べます。
芭蕉が馬に乗っていると、「ちいさき者ふたり」が跡を慕って追ってきます。そのうちの一人が女の子で、名前を聞くと「かさね」だという。「聞なれぬ名のやさしかりければ」(聞き慣れないその名があまりに優雅なので)ということで、「かさねとは八重撫子の名成べし」という句を詠みます。『おくのほそ道』では曾良の句となっていますが、これは芭蕉の句であるようです。
これも状況としてはものすごく不思議です。なぜ小さい子が急に二人出てきたのか。しかも一人の女の子の名は「かさね」だという。これは当時の田舎の子どもには全く似つかわしくない(と言っては失礼ですが)優雅な名前です。
しかし、これも能だと考えれば理解できる。この「かさね」とは、さきほどの草刈男が持っていた花の化身なのです。だから花びらが「重なる」八重撫子なのです。草刈男が持っていたその花の精霊が、芭蕉を追いかけて馬と一緒に走っている──。芭蕉たちはこの那須で、完全に能の世界に入っていたのです。
引用:『役に立つ古典 NHK出版 学びのきほん』安田登著
「かさね」という謎の少女が花の精霊であったという解釈は、芭蕉が旅の中で能の世界観に没入していたことを示唆し、作品に新たな奥行きを与えます。
「俳諧的生活」とは
俳諧的生活とは、世の中を俳と諧で読み直す生き方です。俳というのは、もともとはふたりでするお笑いのことを言いました。和気あいあいとお笑いをする「和」です。諧も諧謔、つまり笑いです。漫才と落語と言ったらいいでしょうか。そんな和とユーモアで世の中を読みかえる。そんな生き方を芭蕉は提案し始めるのです。
引用:『役に立つ古典 NHK出版 学びのきほん』安田登著
「俳諧的生活」とは、和とユーモアの視点で世の中を読み解く生き方。これは現代社会においても、困難な状況を乗り越えるための重要な考え方になり得ます。
ピンチを乗り越える芭蕉の姿勢
ピンチになったときの切り抜け方です。
この章の最初に述べたように、芭蕉は不惑、「四十にして区切らず」を実践した人でした。もっと言えば、彼は人生を通して区切らなかった人でもありました。
若いときに出世の道が断たれたり、江戸に出て職業俳人としての自分に行き詰まったりした。そんなピンチに陥ったとき、芭蕉は常に自分の殻を打ち破っていきました。
そのときに彼が取る方法、それは、いまいる場所を離れて全く違う場所に行くことでした。ふるさとの伊賀を出て江戸に行く。都会の日本橋を離れて深川に居を移す。
引用:『役に立つ古典 NHK出版 学びのきほん』安田登著
芭蕉は人生のピンチに際し、常に自分の殻を打ち破り、新たな場所へ移ることで活路を見出しました。これは、私たちも困難に直面した際に、現状に固執せず、変化を受け入れることの重要性を示唆しています。
俳諧的に生きるとは、あらゆることを和とユーモアの視点で読み直すということです。最初は難しいかもしれませんが、やっているうちに人生が楽しくなります。
たとえば喫茶店に入ったら店員が水を乱暴にテーブルに置いた。「失礼だな」と思う気持ちをちょっと変えて、こう考えてみる。ひょっとしたら、あの人は昨日ものすごく大変なことがあって、イライラした気持ちを抱えていた。仕事中は出さないようにしていたのだけど、うっかりその気持ちがあふれてきてしまった。そんな事情を想像してみると「失礼だ」なんて思えなくなります。
また、私は能の手法を使った劇を演じるグループを主宰しているのですが、日本国内のみならず海外公演にも行くので、いろいろなトラブルに巻き込まれることがあります。そんなときに音楽担当のヲノサトルさんは、必ず「面白くなってきたぜ」と言います。するとみんなもそれに和して「面白くなってきたぜ」と言う。そうするとどんな大変な事態でも笑えるようになり、解決策が見えてくるのです。
引用:『役に立つ古典 NHK出版 学びのきほん』安田登著
日常の出来事を和とユーモアで捉え直す「俳諧的生活」は、私たちの人生をより豊かにするだけでなく、困難な状況においても解決策を見出す力を与えてくれます。
自分探しと「性」の発見
自分が何に向いているのか分からない、という悩みは多くの人が抱えるものです。古典は、その答えを見つけるヒントも提供してくれます。
「不惑」が導く「天命」
いま自分がこうなりたいと思っているのは、与えられた情報の結果そう思っているだけで、それを自分のしたいことだと勘違いしているだけかもしれない。しかも、ちょっと自分に向いていると、それを自分の「性」と勘違いしてしまう。
そんな「勘違いかもしれない」を取り除くために、孔子は「不惑」であえていろんなことをやってみようと提案します。
引用:『役に立つ古典 NHK出版 学びのきほん』安田登著
「不惑」とは、固定観念にとらわれず、様々なことに挑戦すること。それは、与えられた情報からくる「勘違い」を取り除き、本当に自分がしたいこと、つまり「性」を見つけるための道だと孔子は説きます。
興味の幅を広げる読書
「自分が何に向いているのかわからない」という人がいます。そんな人は、まず書店に行って、自分が興味のない棚をなくす練習から始めるのはどうでしょうか。
まず、ふだんは自分が行かないコーナーに行きます。そこで安くて薄い本を探して一冊買って読んでみる。面白かったら、もうちょっと厚い本に挑戦する。わからなかったらもう一冊買ってみる。二、三冊はトライしましょう。
物理に興味のない人ならあえて物理の本を手に取ってみる。料理に興味のない人ならば料理の本を読む。できれば料理をつくってみる。もちろん図書館でも構いません。そうやって、自分の興味を区切らずにいろいろな世界に触れてみることで、自分の性が何かを探していく。本を読むということは、そのためのとても有効な方法なのです。
引用:『役に立つ古典 NHK出版 学びのきほん』安田登著
自分が何に向いているか分からない人は、あえて普段興味のない分野の本を読んでみることを安田氏は勧めています。そうすることで、自分の興味の幅を広げ、新たな可能性を発見できるかもしれません。
「誠」と「性」
「誠」というのは天の道だといいます。天の道は「誠」そのものです。努力をしなくてもぴたりと符合し、あれこれ考えなくても必要なものはゲットでき、そして自然にしていても道に合致している。花は春になれば咲き、毛虫は放っておいても蝶になります。必要なものはあちらから訪れ、必要な人とも自然に会う。これが性に従うことであり、誠そのものの姿です。
引用:『役に立つ古典 NHK出版 学びのきほん』安田登著
そうやって到達した誠から見えてくるものが「性」だといいます。地道な、しかし楽しい作業を続けていった先に到達できるのが誠であり、そこに至って初めて見えてくるものが、「天命」である「性」だというのです。
そして、誠を備えた人は、自分の「性」を十分に尽くすことができるようになります。さまざまな可能性を花開かせることができるのです。自分の性を尽くすことができると、今度は他人の性も尽くすことができるようになる。人の可能性を開く手伝いもできるようになります。他人の性を尽くすことができるようになると、次は物の性を尽くすことができる。これができたときに人は、天と地と対等になり「天地人」が完成するのです。
引用:『役に立つ古典 NHK出版 学びのきほん』安田登著
「誠」とは、努力せずとも自然と道に合致する「天の道」。この「誠」を追求することで、自分の「性」、つまり「天命」が見えてくるといいます。そして、自分の性を尽くせるようになると、他者や物の可能性も引き出し、「天地人」の調和へと繋がるという壮大な思想が示されています。
二宮尊徳に学ぶ楽天的な生き方
「報徳思想」で知られる二宮尊徳の生き方も、現代に生きる私たちに多くの示唆を与えます。
内村鑑三(一八六一 ~一九三〇)が著した『代表的日本人』という本の中でも、日本人の代表の五人のうちのひとりとして二宮尊徳が紹介されています。『代表的日本人』によると、尊徳は十六歳で両親を亡くし伯父に預けられました。昼は畑で懸命に働き、夜に勉強をしていると「灯油が無駄だ」と伯父に怒られる。尊徳は「なるほど、それはそうだ」と思います。そこで川岸の小さな空き地にアブラナを植えて菜種を収穫し、油屋で油と交換して勉強を再開。ところが伯父は「おまえの時間はおれのものだ。おまえを読書のような無駄なことに従わせる余裕はない」とこれも認めません。尊徳はまた「なるほど、それはそうだ」と思い、山へ薪を取りに行く道中で本を読むという「あの方法」を編み出すのです。
引用:『役に立つ古典 NHK出版 学びのきほん』安田登著
尊徳は、伯父の理不尽な言葉に対しても「なるほど、それはそうだ」と受け止め、逆境を工夫と努力で乗り越えていきました。この楽天的な姿勢こそが、「誠」に繋がる重要な要素だと安田氏は説きます。
尊徳も子ども時代、伯父さんに何かを言われたら「なるほど、それはそうだ」と思いました。草鞋のくだりも同じです。お礼なんて言われなくても構わない。それは相手のためになるのですから。私たちは「せっかくやってあげたのに」と思うことによって「誠」から遠ざかってしまうのです。「せっかく」ではなく、あらゆることをラッキーと思う、このような楽天さも「誠」には大切です。
引用:『役に立つ古典 NHK出版 学びのきほん』安田登著
「せっかくやってあげたのに」という見返りを求める気持ちは「誠」から遠ざかる。何事も「ラッキー」と思えるような楽天的な姿勢が、誠の生き方には不可欠だという教えは、現代社会で忘れがちな心の持ち方を思い出させてくれます。
『役に立つ古典』は、古典が現代の私たちに与えてくれる知恵や、生き方のヒントに満ち溢れています。この本をきっかけに、あなたも古典の世界に触れてみてはいかがでしょうか。
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