私たちが日々生きる中で、人間関係は避けて通れません。その中で、誰かを「好き」になる感情は歓迎されますが、「嫌い」という感情はどうでしょうか。多くの場合、それはネガティブなもの、隠すべきものと見なされがちです。
しかし、哲学者の中島義道氏は、その「嫌い」という感情こそが、人生を豊かにする鍵だと説きます。本書で中島氏が徹底的に考察するのは、「ひとを嫌う」という、私たちが蓋をしたがる自然で理不尽な感情です。
「嫌い」を正確に見つめ、それを受け入れることが、私たちの生き方をいかに変えるのか。本書から得られた洞察をもとに、そのエッセンスをご紹介します。
嫌いな感情は「自然」で「理不尽」なもの
私たちは「人を嫌ってはいけない」という道徳的な前提のもとに生きているため、「嫌い」という感情が湧くと、すぐにそれを否定したり、無理に良い感情にすり替えようとしたりします。しかし、著者はこの前提に強く異を唱えます。
不思議に思うのは「ひとを嫌ってはいけない」という大前提でことを進めようとする議論ばかりであって、ひとを嫌うことの 自然性 にしっかり目を据えた議論がほぼ皆無なこと。
引用:『ひとを〈嫌う〉ということ』中島 義道著
「嫌い」という感情は、私たちが思う以上に、人間に自然に備わった感覚だというのが中島氏の考えです。
そして、この「嫌い」の感情は、しばしば私たちの理屈や論理を超越しています。
私がつかんだこと、それは「嫌い」という感情は自然なものであること、そして恐ろしく理不尽なものであること、しかもこの理不尽さこそが人生であり、それをごまかしてはならないこと、このことです。こう確信して、私は少し楽になりました。
引用:『ひとを〈嫌う〉ということ』中島 義道著
この理不尽さを認め、「嫌い」という感情を「なかったこと」にせず、正確に見届けていくことこそが、人生をより深く、豊かに生きるための一環であると著者は主張します。
「嫌い」の原因探しは自己正当化
誰かを嫌いになったとき、私たちはその理由を探そうとします。「なぜ彼(彼女)を嫌いなのか」と。しかし、この原因探求こそが、人間の持つ巧妙な心理メカニズムだと中島氏は指摘します。
つまり、「嫌い」の原因を私が 探るとき、私はすでに自己正当化しようとしている。私はXに対して「嫌い」というかたちのどす黒い炎を燃やして
引用:『ひとを〈嫌う〉ということ』中島 義道著
これが、Xに対する不当な仕打ちではなく正当な仕打ちであることを自分でも確認したい。でなければ、私は不当なことをしていることになりますから。それは耐えがたい。私は「嫌い」という不快な感情をXに対して抱く正当な権利があることを探り出して、みずからを救いたいのです。これが、「嫌い」の原因を探究する心理状態です。
引用:『ひとを〈嫌う〉ということ』中島 義道著
「嫌い」という不快で倫理的には歓迎されない感情を抱く自分を救うため、私たちは相手にその責任を押し付けようとします。原因を探る行為は、「私が嫌うのは、相手が悪いからだ」と自分自身を納得させるための儀式なのです。
しかし、この原因探しをやめ、冷静に「嫌い」を見つめることには、真の効用があります。
「嫌い」の原因を探ることには絶大なプラスの効果があるからです。自分の勝手さ、自分の理不尽さ、自分の盲目さが見えるようになる。
引用:『ひとを〈嫌う〉ということ 』中島 義道著
「嫌い」は相手のせいではなく、自分の「勝手さ」「理不尽さ」から生じている側面もあると認めること。ここに、自己理解と成長の機会があるのです。
嫉妬や自己愛といった感情の力学
「嫌い」の感情の背後には、嫉妬や自己愛の不平等な姿勢といった、人間特有の複雑な感情が潜んでいます。
まず、嫉妬は「嫌い」を引き起こす大きな要因の一つです。
嫉妬には相手の没落を望む気持ちが影のようにつきまとう。だから醜いのです。
引用:『ひとを〈嫌う〉ということ』中島 義道著
誰でも、嫉妬が自尊心を骨抜きにする、つまり敗者であることを自認する感情であることを知っているのです。
引用:『ひとを〈嫌う〉ということ』中島 義道著
嫉妬は、敗者であることを自認する感情であるがゆえに醜く、それを隠すために相手への「嫌い」という形で現れます。自分より才能があると感じた相手への「誠実な」嫉妬や、愛する人が自分より自分自身を愛していると感じたときの嫉妬など、そのメカニズムは多岐にわたります。
また、人間関係における「不平等な姿勢」も、「嫌い」を歪ませる原因です。
自分は他人を盛んに嫌っているのにかかわらず、他人から嫌われることは絶対に許せないという 不平等な 姿勢に凝り固まってしまうのです。
引用:『ひとを〈嫌う〉ということ』中島 義道著
自分が人を嫌うのは許容できても、人から嫌われることは耐えがたい。この自己中心的な態度は、「嫌い」を正しく見つめることを妨げます。
著者は、この不平等な姿勢を捨て去ることを提案します。
えせ道徳的な態度などさっぱり捨てればいいのです。そして、自分をみずからBさんを嫌う程度には 厭 な奴だと認めて、Bさんに危害を加えたり、追い詰めたりしないで、さらっと納得するまで嫌いつづければいいわけです。
引用:『ひとを〈嫌う〉ということ』中島 義道著
自分もまた、人が嫌うような「厭な奴」だと認め、その上で感情をごまかさずに向き合うこと。それこそが、誠実な生き方につながります。
「嫌い」を大切にする豊かな人生
中島氏の哲学は、「嫌い」を克服せよとは言いません。むしろ、その自然さと理不尽さを前提とし、人生の景色の一部として受け入れるべきだと説きます。
根本的転換は、ひとを嫌うこと、ひとから嫌われることの 性 をしっかりと見据えること。
引用:『ひとを〈嫌う〉ということ』中島 義道著
「嫌い合うこと」は自然なことです。だからこそ私たちは「嫌い合いたくない」と望むのであり、「良いこと」は単なる理念や願望に過ぎません。この現実を直視することが、根本的な転換点となります。
著者は、この自然な感情をごまかさず、むしろ大切にすることで、人生は豊かになると結びます。
「好き」が発散する芳香に酔っているばかりではなく、「嫌い」が放出する猛烈な悪臭も充分に味わうことができる人生ってすばらしいのではないか。そう思います。
引用:『ひとを〈嫌う〉ということ』中島 義道著
この歳になって心から望むこと、それは夫婦とか親子とか親友とか師弟、さらには知人とか職場の同僚とかの「嫌い」を 大切にしてゆきたい ということ。
引用:『ひとを〈嫌う〉ということ』中島 義道著
「嫌い」という感情は、人生の深みと奥行きを増し、自己と他者への理解を深めるための、避けがたい、そして貴重な要素なのです。
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